水筒の紐

水筒の紐がなくなった。

園児用の水筒には肩掛け紐がついている。洗うときにはそれをとって洗う。寝坊して起きた朝、カウンターに置かれた水筒は中身が入っていたが紐がついてなかった。「あれ、紐は?」と私が聞くと、旦那が「え、知らない。どこやったの?」という。二人でちょっと顔を見合わせて互いを怪しんだ。

「水筒洗った人がどっかにやったのでは…?」と私。

「洗い場に置いてあった時点でついてなかったんだから、洗い場においた人がどっかやったんでしょ…」と旦那。

 

最後に使ったのは休日の公園である。

子供がごくごく飲んで軽くなった水筒を紐付きでリュックサックに押し込んだのが私の明確な記憶の最後。家に帰ってリュックサックから出して紐付きで床においたのが旦那の明確な記憶の最後。そして旦那が洗おうとしたときにはすでに紐はなかったという。キング・クリムゾンの如く紐の存在が歯抜けている。

子供が外せる構造ではないので大人が外したはずである。

ところで私は私の記憶力を信じない。なにかというと物をなくしがちだし、予定する日時はメモらなければたいてい間違う。人の顔を覚えるのも苦手だしゲームのルールも理解するのにけっこうかかる。なのでこういう記憶の食い違いがある場合、大抵私が忘れていると仮定している。そのほうがどっちが忘れたとかで一悶着するのをすっ飛ばして解決方法に移行できるからだ。

 

今必要なのは誰が紐を外したか、ではない。

どこに紐があるか、である。

 

すでに保育園への出発時間は残り15分を切っている。犯人探しなど時間の無駄。私は自分が紐を置きそうな場所を総当りで見た。いつもの壁掛けフック、無い。食器棚、無い。カウンター、無い。寝室、無い。テーブルの下、無い。

汗が出始める。

梅雨入りで湿気が増しているのに冷や汗で湿度200%を超えてしまう。

「もしかして車の中かな」次女のでろでろ流れる涎を拭いながらの旦那のボヤキに鍵を掴んで家を飛び出す私。座席の下、無い。チャイルドシート、無い。助手席、無い。大穴でダッシュボード、無い。もしかして:トランク、無い。車の下、猫もいない。

ピンクのキラキラした紐が無い。

時計が出発時間を告げる。吹き出す汗をそのままにして次女をチャイルドシートにしばりつけ、長女を急かして車に乗り、紐なしの水筒を引っ掴んだ。ヤケクソになりながら車を出す。水筒探しに時間を食って余裕がなくなり急かされた長女が文句を言い出す。

「靴履きたくない!傘ぐるぐるぱーん!てしたい」「ぐるぐるぱーんて何?!いや靴は履いて雨だから」「イヤ!!!長靴じゃない!サンダルはく!」「泥水が見えんのか?!?アマゾンの人?!ここ日本だから靴はいてはやく!」

園の駐車場でスマホの時刻が遅刻ギリギリを示してパニックになる私。ええいもう良い、と左手に次女と荷物、右手に紐なしの水筒と長女を担ぎ上げて走り出す。公衆の面前で担ぎ上げられた長女が癇癪のまま号泣!

「いやだああああ!!!長女ひとりでできるのにいいいいい!!」「ママまじで遅刻するからはやくしてって言ってるでしょ!!!」「ママのいじわる!!!いやだーーーー!!サンダルううう!!!!!」

暴れる長女とがなる私ときょとんとする次女。すれ違う子にポカンとされながら駆け込む園内。号泣する長女を先生にバトンタッチ!プロで天使で女神の先生が「落ち着くまであっちいこうね〜」とスムーズに号泣長女を部屋に連れて行く。そこに汗だくの私はせんせえー!!!と紐なしの水筒を突き出した。

「先生ごめんなさい今日紐無いです」

「えっ」

「なんか朝起きたら無くて。すいませんけど中身は入ってるんで今日これでお願いします」

「なにそれ凄い面白い」

ウケる先生。えーん面白がってくれるの?やさしいすき。緊張が解れる私。

「いやもうほんと嘘でしょ?!ってかんじなんですけど」

「焦りますねお母さん!わかりました、大丈夫です!……ちなみに紐が園にあるってことは…?」

「いや絶対家にあるんで大丈夫です!!!絶対あるはずなんで!!隠れてるだけなんで!!!スイマセン!!!!」

心配をおかけしてしまった先生に「マジで家にあるんでほんとマジで」を連呼して次女を教室に預けて仕事へ走った。遅刻はしなかった。

しかし仕事中も頭の中は水筒の紐でいっぱいである。ない記憶を掘り起こそうにも覚えてないもんは思い出せない。あとはどこを探せばいいんだ…心当たりはどこだ…まさか仕事用のカバンにとち狂って突っ込んだか?などと頭に過り唐突に鞄を漁ったりなどした。無かった。

 

子供を回収し家に帰る道すがらも紐を考える。パッションピンクでキラキラの紐。長女が選んだ水筒の紐。家の中で絶対にわかる色の紐。運転席で唸る私に長女が言った。

「あたらしいの買う?」

買わないなあ〜〜〜〜!紐だけは買わないなあ〜!絶対家にあるもん……。と返事をするが長女の頭ではすでに次の紐へ期待が膨らんでいる。

ユニコーンがついてるやつがいいと思う」「いや買わんて」

神妙な顔をして言う長女に、運転席から私は首を振った。

帰り着いてからも家中をうろうろして紐を探す。布団の隙間、鞄のなか、シンクの下…。そんなとこ絶対ないだろ、と頭の中の理性が言うことも、疲れてたら入れてるかもしれないだろ!と捻じ伏せて探した。無かった。夜に旦那が帰宅して、それでも見つからなかった。風呂に入ったのに汗がでる。ハウルの動く城の階段を登る荒地の魔女みたいな風貌で家中を探す。無い……ぜえぜえ……無い……くそっ……ここか?……無い……

 

ついに諦めが頭をよぎった。

 

買うか……紐……ユニコーンがついたやつ…

そんな考えがチラチラ過る。しかし無くしたら買うを繰り返すのは教育上よくないんじゃないか。そんなことも思いながら、部屋の真ん中で項垂れた。次女が足の周りにまとわりついて涎を垂らしている。メルちゃんを出せと催促してくる。ため息を付きながらおもちゃ箱を開けた。

 

あった。

 

水筒の紐がおままごとセットのコンロに絡みついていた。プラスチックのコンロはピンク色である。ピンクにピンクが絡みついている。私は紐を引きずり出して雄叫びを上げた。

「おおおあああああああったああああーーー!!!!!!!!」

多分宝くじが当たるときより声出た。

振り返ると次女が「えへえへ」笑っている。旦那が駆けつけて「なるほど」と言った。「昨日次女が遊んでだからな、おままごとセットガンガン叩いて」

つまり私が無意識に外してどこかにおいたのを次女が回収しておもちゃ箱に入れていたのだろう。普段のフックにも彼女は手が届くようになったのだ。恐るべし、子供によるテレポーテーション。すぐさま次女の手が届かない場所に紐をしまった。

ユニコーンがついた紐は買わなくてよくなり、私の冷や汗はようやく止まった。